アクテイブシニアのリタイア後の楽しみ方(回顧録1) No. 34

ブログ更新の遅延

2月13日の前回のブログから書くネタ探しにかなり日にちを費やしてしまったのと、Xserverでブログの新規追加が出来なくなってしまいました。

Xserverサポートへ何回か問い合わせましたが、解決しませんでした。

起きた現象としては、新規追加や過去のブログの編集を行なおうとすると、「ページが応答しません」のメッセージが出て、作業が出来ない状態になってしまいます。

サーバーサポートにコンタクトしたのですが、答えは「エラーログを抜粋したものを【メール本文にテキスト形式で記載】する形でお知らせくださいますようお願い申し上げます。当該エラーを確認していただき、その後エラーログファイルをダウンロードしてください。」とのことでした。

もういい歳の私では対応しきれず、エラーログファイルすらダウンロード出来ず、何回問い合わせても同じ答えしか返って来ませんでした。

会社に行き、この問題を日本人社員に相談すると、もしかするとWebプラウザを変えると上手くいくかもしれないと言われ、いままで利用していたMicrosoft EdgeからFirefoxに変えて、やっと上手くいきました。

歳を取ると怒りっぽくなってしまうのか、かなり頭にきてもうブログを辞めてしまおうかと思いました。

今回のブログのテーマ

今までのブログは、現在の自分の体験を写真を多く用い作成してきました。

元々私のブログのイメージは、ビジュアルではなく、自分の考え方や経験を文章で書くものだったように思いました。

今回は自分の回顧録を書こうと思います。

私を知らない他人が読んでも面白い物ではないと思いますが、自分の記録として書かせてもらいます。

小学校の思い出

私は家の近くの東京都中野区の区立の小学校に通っていました。

足が早かったので、運動会の徒競走では何時も一番だったことを思い出します。また小学校3年生の時、足が速かったと言うだけで初代の学級委員に選ばれたことを覚えております。

二歳上の兄は勉強が出来、小学校では一番だったようです。

母は兄を開成中学に入れるのに躍起で、次男坊の私はほとんど野放し状態でした。

兄には同じ小学校の先生が家庭教師をしており、母からは先生が家に来る時間には、他の子供たちに分からないように、家のそばで遊んでいる子供たちを他に移動させろと言われておりました。

私は大事なことだと思い、一生懸命子供たちを移動させました。その甲斐もあったのか、兄は開成中学に無事入学しました。

自分の両親もそうだったのかもしれませんが、昔の人は長男重視の風潮があったのだと思います。

その後母は慌てて、私に兄と同じ家庭教師を付けようとしましたが、私の実力を見抜かれたのか、先生から断られたことを今でも鮮明に記憶しています。

子供の頃を振り返ると、ろくに努力しなくても勉強の出来る人、絵の上手い人や何でも器用にこなす人間がいたような気がします。今から思うと、これらは生まれ持った天性だったのでは無いかと思います。

子供のころ不思議に思っていたこととしては、正月やお盆になると東京から人が居なくなってしまうことです。

両親が二人とも東京出身で田舎が無いため、子供ながら田舎がある人が羨ましく思えました。

それが理由か、私が小学校の3年頃に長野県の蓼科に小さな家を建て、夏休み中はそこで過ごしました。

父は大学で教鞭を取っていたので、夏休み一か月は子供たちと一緒に蓼科で過ごしました。

中学時代の思い出

私は勉強も出来ませんでしたので、不良だらけの東京都でも一番悪い区立の中学校に通いました。

今では信じられないと思いますが、毎日のようにカツアゲやいじめがあり、他の学校へ殴りこみに行く輩で一杯でした。

そんな学校でしたから、中学校の良い思い出は殆ど無く、自分はクラブ活動は何もやって来ませんでした。

身に付いたスキルと言えば、不良の多い中でいじめにもあわず、上手く立ち回る方法だった気がします。

今でも中学時代の思い出はほとんど無く、友人もまったく居ません。

 

高校の思い出

高校は都立高校ではなく私立大学の付属高校に通いました。

中学で何もしてこなかったので、運動部に入ることにしました。野球部は全員坊主でしたのでやめて、サッカー部に入ることにしました。

まだサッカーはメジャーなスポーツではなく、たまたま漫画家梶原一騎が書いた[赤き血のイレブン]と言う漫画が大人気で、サッカー部に入部する人で一杯でした。

まともに練習が出来ないほど部員が多すぎましたので、上級生は部員を減らすために、地獄の扱きを行った結果、瞬く間に半分の部員が辞めていきました。

先輩からは付属高校なんだから、勉強よりクラブに集中しろと言われ続け、成績も振るわず、親からはクラブを辞めろと言われ続けていました。

サッカー部の練習はかなりキツイもので、毎日暗くなるまで練習が続き、土曜日は地獄の日で昼から夜まで扱かれました。練習後にトイレに行くと尿が真っ赤になることすらありました。

試験前一週間はクラブ活動が中止となり、ここぞとばかり放課後に麻雀をしたことを思い出します。

クラブの中でも中学校からサッカー部に入っていた者と、私のように高校から始めた者との差は歴然でした。

私は小柄で技術もありませんでしたが、走るのは同学年の部員の中では一番早かったと思います。

当校のサッカー部の戦績は、一年先輩の代は東京都でベスト4、我々の代はベスト8とかなりの強豪校でした。

上下関係がとても厳しく、サッカー部の上級生を見つけると、何だか分かりませんが「チュワス」と大声で挨拶しなければなりませんでした。

その当時は全国優勝していた帝京高校と同じブロックで、かち合うと負けてしまいました。あの当時から、帝京高校は全国から部員を集めていたと思います。

今から振り返ると、高校生活の3年間は大変厳しい時代でしたが、これから先の自分の人生に大きな影響を与えてくれたと思います。

目上の人に対する礼儀作法(言葉使いなど)も、この当時に身に付いた気がします。

中締め

今回のブログは、今までの物とはまったく違い、写真も少なく自分本位なものになってしまいました。

次回もこりずに、続きの大学時代の思い出を書く積りです。

 

 

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