アクテイブシニアのリタイア後の楽しみ方(回顧録2) No. 35

大学時代の思い出

高校を卒業する時は付属高校だったので大学は決まっていましたが、学部を決めなければなりませんでした。

高校卒業は昭和47年で、世の中は田中角栄総理の列島改造論が叫ばれており、理工学部の中でも土木が一番人気の学課でした。

本人は土木が将来どんな仕事なのか、まったく分からない中で、回りの大人たちがこれからは土木の時代とか言われ、土木工学課を選びました。

 

土木工事とは、道路、鉄道、橋、河川、港、ダム、空港、上下水道等を建設する仕事で、多岐に渡っております。

最近のニュースでよく、大雨で河川が氾濫したとかありますが、河川の設計は国交省が管理している一級河川は100年洪水量、地方自治体が管理の二級河川は50年洪水量で造られているものが多くあります。

言い換えれば50年あるいは100年さかのぼり、今回が記録的な大雨になれば氾濫してもおかしくない訳です。

もちろん,それ以上丈夫な護岸等を構築することは可能ですが、経済的に折り合いません。

 

昔から、土木とよく混同されるのが建築工学で、簡単に言うと建物等を建てるための学問です。

建築はアカデミックな分野で、建築士は先生と呼ばれましが、土木屋は土方の親分のイメージです。

 

話は変わり、大学に通いだすと附属高校の出身者はグループを作り、外から受験してきた人達からは「附属の馬鹿」と呼ばれていました。

受験勉強をして入学した人との実力の差は歴然で、馬鹿と呼ばれてもしょうがありません。

私は付属出身者の仲間には入らず、地方の出身者達と付き合い始めました。

私は高校の時から麻雀が得意で点数を数えられたので、そのことで初心者の周りのからは一目置かれ、先生と呼ばれていました。

 

理工学部の勉強は、文系の学部に比べ一週間べったり授業があり、尚且つ試験も難しく4年で卒業できるのは全体の6割程度でした。

私の大学時代は、時代が大きく変わった時期であり、私の身の回りの物もたくさん変わりました。

大学一年の試験には、計算尺持込可能で、難しい掛け算割り算もこれを使って行いました。今では信じられないシロモノです。

その後1974年(昭和49年)大学2年の時に、日本で初めての個人用の関数電卓のカシオfx-10が販売されました。

その当時でもかなり高値の10,000円程度だったと思いますが、試験持ち込み可だったので買ってもらいました。

この当時は学生運動全盛期で、3年の時には大学もロックアウトになり、試験も実際には行わずレポート試験でした。

最近の大学では、土木学科と名前を付けると、学生が集まらず都市工学課とか訳の分からない名前を付けている大学もあるそうです。

昔から土木工事とは、嫌われる仕事の3K(きつい、汚い、危険)の代名詞のように言われて来たように感じます。

ニュースなどで犯罪者でよく出て来るのが土木作業員という名称です、建築現場で働いていても建築作業員とは言われません。

皮肉なことに、大学を卒業する年の昭和51年は、48年から始まった第一次オイルショックの余波で、役所も民間企業も採用を見合わせるところが多くありました。

 

自分は勉強をしたかった訳けではなく、まだ遊び足らなかったことと、就職したくなかったので、大学院を受験することにしました。

大学の学部生は土木工学科で300人おりましたが、大学院の定員は10名程度で、他の大学から受験してくる人もおりかなり難関でした。

劣等生の私が受かると、みんながビックリしたのと、劣等生仲間はみんな喜んでくれたことを思い出します。

また大学院の同期に、防衛大学を主席で卒業した者がおりました。

彼は大学院入試の面接の時に、面接官から「君は何の勉強をしたいのか」と尋ねられると、「私は敵国ソビエトを壊滅状態に陥れるために、津波の研究をしたい」と答えました。

後で彼に聞いたら、ジョークだったんだよと言っていましたが、試験管の教授はかなり驚いていました。

それでも彼は試験を楽々パスし入学してきました。

当時の防衛大学校は、優秀な彼を自衛隊に残そうとして、一週間ほど説得のため監禁されたと言っていました。

その後の彼は、優秀だったので東北の国立大学の教授になりました。

 

中締め

まだまだ書くことは一杯残っておりますが、長くなってしまったので一旦中断させていただき、次回に続きます。

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