大学院時代の思い出
大学院に通いだしてからは、長年やりたいと思っていた、スキーバスの添乗員のアルバイトを始めました。
大学は土木工学科で、女性はゼロで知り合うキッカケもなかなかありませんでした。
ある先輩から添乗員は女の子に持てるぞと言われ、始めることにしました。
その当時はスキーブームで、雪が降ると週末にはスキー場に行く人でごった返し、リフト乗り場の30分待ちは当たり前の時代でした。
私のホームゲレンデは長野県の志賀高原でしたが、添乗で行ったスキー場は、蔵王、野沢、赤倉、斑尾高原、草津など。
特別企画のツアーの添乗も多く行いました。
今記憶している物には
「ジャパンアクションクラブと滑ろう」
社長の千葉真一、真田広之、潮見悦子が来ていました。
ほかにも、「トランぺットの渡名貞夫」、当時大人気だった歌手の「狩人と滑ろう」、「斉藤慶子と滑ろう」などなどでした。
その当時バスには40人のお客さんを乗せて、飯田橋のお堀脇から出発です。
添乗員を始めた当初は、マイクを持って話すだけでも緊張してしまい、手が震えてしまい、まともにお客さんの顔も見られませんでした。
何回か行くうちに人前で話すことに慣れてしまい、今回はかわいい女の子が乗っていないか探す余裕が出てきました。
今でも覚えておりますが、添乗員の最初のスピーチは次のようなものでした。
「皆さんこんばんは。この度は日刊スポーツ並びに東京トラベルセンター主催の志賀高原行スキーバスをご利用いただき、まことに有難うございます。
東京を出ますと、熊谷、安中、上田で休憩してまいります。
本日はたくさんのバスが出ておりますので、ドライブインでは自分の乗ってきたバスを見失いようにお願いいたします。
本日のバスは、〇〇観光のバスでフロントガラスには、日刊スポーツ志賀高原行のステッカーを張ってあります。
また女性の方は、トイレが大変混雑するため、着いたら一番に行ってください。」
添乗員の仕事は結構大変で、金曜の夜から出発し、到着は土曜日の早朝で、まったく眠れません。
帰りは、スキー場を夕方出発し、月曜日の早朝に飯田橋着でした。
当時は若くて元気だったので、サラリーマンになってからはスキーをかついでそのまま会社に出社しておりました。
それとお客さんが40人も居ると中には必ず変な人がおりましたし、色々な事件もありました。
エピソード1
苗場スキー場に朝付いた時、一人のお客さんが口から泡を吹いて倒れました。
私は以前に同じ症状を見たことがあり、てんかん発作だと思いますと言いました。
そしたら倒れた人の友人が、てんかんとは何だと怒り出し、胸ぐらをつかまれました。
その後に呼んだ医者が到着すると、「これはてんかん発作だね」と言いました。「てんかん」とは病名で、別に差別用語ではありません。
その友人からの謝罪はまったく有りませんでした。
エピソード2
スキーバスのお客さんも、値段により宿泊する部屋が違います。
その時は、大みそかから正月のコースで、一番高いバストイレ付きの部屋でとんでもないことがおきました。
水道管が凍結して破裂してしまい、水がまったく出なくなってしまいました。
お客さんから添乗員の私に連絡があり部屋に入ってみると、水が出ないことを知らずにトイレを使ったため、すごい臭いでした。
お客さんはかんかんに怒ってしまい、おさまりが付かず、ホテルの支配人の部屋に押しかけ話になりました。
これはまずいと思い、私が代表になり先頭を切って怒鳴り込みに行きました。
ホテル側からは、夜を徹しての応急修理と優待リフト券をもらうことで決着しました。
その後はお客さんの部屋に呼ばれ、添乗員さん良くやってくれたとお酒をご馳走になりました。
ホテルの支配人には、先ほどキツイことを言って申し訳なかったと謝りに行くと、添乗員さん良く収めてくれたと感謝され、私にも優待リフト券をくれました。
添乗は冬だけではなく、春には尾瀬ヶ原観光、夏には富士山登山、富士スピードウエイでのマラソン大会、与論島観光等、色々経験しました。
エピソード3
話は変わり尾瀬ヶ原1泊2日のコースです。
バスは早朝鳩待峠に到着し、そこから歩いて尾瀬ヶ原の宿泊先の東電小屋を目指します。
事件は宿泊先の東電小屋で起きました。当時の山小屋は畳1畳に2人が寝ることになっていました。
今では考えられませんが、女性と男性も同じ一つの部屋で、女性と男性を分けて寝てもらい、その間に添乗員の私が寝るわけです。
私が寝ていると夜中にお客さんから起こされ、自分の寝るスペースが無くなったとのことでした。
肩を寄せ合い窮屈に寝ている中、夜中にトイレに行った人が戻ったらスペースが無くなってしまったのです。
その晩は同じ問題で夜中に3回も起こされ、まったく眠れませんでした。
結果的に、大学院時代3年間と社会人になってからも、会社に内緒で2年間の計5年間も続けて、最後は新入添乗員の研修までやりました。
これらの経験は、その後の人生に於いては、大変貴重な経験でした。
修士課程は2年ですが、勉強好きの私は3年大学に留まり、昭和54年(1979年)に卒業しました。
まったく人生とはままならないもので、その年は第二次オイルショックが勃発してしまいました。
中締め3
昔、蓼科の家に父の友人の大学の先生達が来た時、中に小説家の先生がおり、「誰でも一冊は長編小説が書けるよ」と言っていたことを思い出しました。
「それは自分の生きてきた人生に付いて書けば、ネタには困らないからね。」と言っていました。
私も今回も自分のことを書いているとなかなか終わりません。
長くなったので、続きは次回に書かせてもらいます。
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