今回のテーマ:一時帰国に際して考えたこと
インドネシアのコロナ感染状況
今回の一時国は、今までの場合とは全く違うものでした。それと言うのは、昨年の7月にはインドネシアで一日のコロナ感染者がその当時では世界最悪の5.4万人、死者も1日当たり1.8千人達したのでした。
私が住んでいるアパート近くの病院では、死んだ人が入った棺桶が、駐車場を埋め尽くしておりました。その時はコロナの状況も良く分かっておらず、インドネシアの友人も二人亡くなりました。自分もこれ以上インドネシアに居たら本当にヤバいのではないかと思いました。
日本行きの航空券
その時は日本人も殺到して帰国したわけですが、普段は7万円前後の航空券が32万円にまで高騰しておりました。その中某建設会社は、自社の従業員と家族のために特別便をチャーターしたニュースが日本でも騒がれました。
会社から派遣されている人たちは、値段に関係なく帰国しましたが、後ろ盾のない私は一瞬この値段を聞いて躊躇してしまいました。日本の女房からは、高くても構わないから帰国しろと言われ、あわてて飛行機予約しましたが、時すでに遅しで一ケ月先の便しか取れない状況でした。
そうこうしているうちにインドネシアのコロナも収束方向に向かい、結果的に帰国は12月20日の年末になってしまいました。
インドネシアのワクチン接種
インドネシア政府は、新規コロナ感染者が急激に増えだした、昨年の6月頃からワクチン接種証明書の提示の義務化を開始しました。すなわち証明書が無いと、ショッピング・モール、スーパーマーケット、レストラン等には入れないようになってしまいました。
すなわちワクチンを接種していないと、買い物も行けず日常生活が出来ない状況になったわけです。
私と帰国できずに取り残された日本の友人は、やむなく現地でワクチン接種を行うことになったわけです。そこでまた新たな問題が浮上したのでした。インドネシアでは中国からワクチン外交として支給されたシノパックと言うワクチンしかありませんでした。
選択の余地が無い中、二人でワクチン接種に行ったわけです。
インドネシアのワクチン接種証明書
私は、ワクチン接種会場でメールアドレスを登録し、嫌々ながら中国製のワクチンを接種しました。次の日にはインドネシアの保険省からのメールでワクチン接種証明アプリが届きました。自分の登録番号を入力すると、たちまちワクチンパスポートが完成したわけです。
今までのインドネシアの役所とは全く違い、この対応の速さに驚かされました。
その日から、ショッピング・モール等の入口に設置してあるQRコード読み取り機にスマホをあてれば、瞬時にワクチン接種が証明されました。日本よりかなり進んでいるように思われます。
上に表示されたものがインドネシアのワクチン接種のPeduliLinc(Care Protect)と言うアプリの最初の入力画面と私のワクチン証明書ですが、何と日本語表記も選べます。
帰国後の隔離期間
まずは帰国時の羽田空港でのPCR検査です。唾液を容器に採取するのですが、私自身んもかなり苦労しましたが、私より年配の方は唾液がなかなか集められず、後は完全に大渋滞してしまっておりました。検査結果を待つ間、何故か私は大昔に受けた、運転免許書の試験結果発表を思い出し、どきどきでした。
また入国に際しては、携帯にGPS(Google map)及び厚生省のMy SOSと言うアプリのダウンロードとEメールアドレスの登録が義務付けられました。なお携帯を所有してない人は、その場で携帯のレンタルをさせられておりました。
幸い帰国した時は、インドネシアでの新規感染者は200人台でしたので、他の国の帰国者とは違い、私は羽田から直接自宅に戻ることが出来ました。但し、一般の交通機関の使用は禁止されているので、帰国者専用の高い値段のハイヤーで帰宅しました。
ただ家に着いてからも、2週間の自宅待機を言われており、毎日顔認証とGPSによる居場所確認と健康に関する質問の電話がありました。一年前はここまで厳しくなく、自動音声による健康確認だけだったことと比べると、今回はコロナもより深刻度を増しているように感じました。
上は、14日間の検疫後の厚生省のMy SOSのアプリの現在の画面です。
今回の一時帰国での出来事
私は古い人間なのか、正月だけは自宅で過ごしたい派です。ただ14日間の自宅待機を言われており、1月3日までは外出出来ませんでした。今回は1か月程度日本に居る予定でしたので、その間友人と会ったり女房と出かけたりしておりました。
その1:高校時代のサッカー部の旧友との再会
正月は毎年、家の近くの駒沢競技場で高校サッカーを観戦するのが恒例の行事です。今年は高校時代のサッカー部のチームメートを呼び出し、高校サッカー観戦に行きました。
しかし今年は例年とは違いコロナ感染対策からか、当日券の窓口販売はありませんでした。インターネットで会員登録してからの販売だそうです。我々シニア3人であわてて会員登録を試みるのですが、上手くいきません。そうこうしている内に、試合開始のホィツスルが遠くで聞こえて来てしまい、結局入場を諦めるはめになってしまいました。
一人の友人とは、かれこれ20年ぶりの再会でした。彼が今回駒沢競技場に来た目的は、午前中に行われた65歳以上のサッカーリーグでサッカーの試合をすることでした。もう一人の友人も、未だにサッカーを続けておりました。
高校サッカーの観戦を諦めた我々は、このまま帰るのも勿体ないので、近くの飲み屋へ飲みに行くことにしました。まだ正月ですのでお店もほとんど開いておらず、やむなく近くのサイゼリアで飲むことになりました。
他に開いているお店が無かったせいか、そこでバッタリ先ほどまで友人が一緒に試合をしていた、65歳以上のサッカーチームのメンバーの新年会と一緒になってしまいました。私もメンバーに紹介され合流することになりました。
皆さんはもうかなり出来上がっており、今日の試合は敗戦だったようで、その反省会が始まりました。メンバーの大半は70歳代の先輩たちで、急に68歳の我が友人に対し「お前らまだ若いのに走りが足りない」とお説教が始まりました。私は自分と同年代でまだ、若造扱いされている友人を見て、かなりショックと驚きを受けました。
最近では自分自身、階段の下りで膝が痛くてびっこ引く有様です。今回自分よりかなり年齢の上の70歳台の人がまだサッカーをやっている訳で、自分もまだまだ老け込む歳ではないことを自覚させられました。
その2:世田谷美術館を訪れて
今回もう一つ、驚きショックを受けたことがありました。それは妻と一緒に訪れた世田谷美術館で開催されている生誕160年記念グランマ・モーゼス展でした。
私自身忘れていましたが、1987年に日本で開かれた展覧会に当時35歳だった私は見に行っておりました。下の写真はその時に購入した写真集の表紙です。
写真集の紹介文より、グランマ・マーゼス(1860-1961)はアメリカ人なら誰でも知っている国民的画家です。
「人生は自分で作り上げるもの。これまでも、これからも」と自伝にそう記したそうです。無名の農婦から、70代で本格的に絵を書き始め、80歳の時ニューヨークで初めて個展を開いたそうです。;絵の基調は、身近な出来事や自然への温かなまなざしを映した作風とのこと。私自身の印象は、アメリカの田舎の牧歌的な風景画で絵本の様でとても癒され感が伝わってきました。
ここに書かれた「人生は自分で作りあげるもの。」という言葉は、私にとって非常に感銘深いものでした。出典:生誕160年記念写真集より
結び
私が今回驚かされたことは、70歳を過ぎてもサッカーの現役選手としてプレーをしている人たちとの出会い。それと、絵を本格的に始めた年齢が70歳で、今回の展覧会でも100歳の時に描いた絵まで展示してあったグランマ・モーゼスと言う女性の存在です。
今回の一時帰国に際し、もうすぐ68歳となる自分は、サラリ―マンをリタイアした今、余生を楽しく楽して過ごしたいと思っていたわけです。このことに対し、何故か後ろめたい感情が湧いてきた訳です。まだまだ自分としてやり残したことや、新しく始められることがたくさんあるのではないかと気付かされた良い機会でした。
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